台湾人元日本兵たちの 戦後 その1 (Part1)

John Nan
Jun 17, 2021
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献 辞

長い苦しみに耐えた人たちと

良心の人たちに

以下の記述については、全体的事実の把握、および事実確認において、以前、「台湾人元日本兵士の補償問題を考える会」の方よりいただいた、「台湾人元日本兵戦死傷補償問題資料集合冊 台湾・補償・痛恨」台湾人元日本兵士の補償問題を考える会編、1993年、に負うところが多かったことを、特記しておきます。

その1

基本事実

台湾人元日本軍人軍属は、戦死した、もしくは身体に障碍を残した場合でも、日本国籍を失ったとして、戦後、例外的事例を除き、日本政府から恩給、障害年金に類するような補償を受ける事はなかった。

1977年(昭和52年)、日本人支援者たちの支援を受け、9人の台湾人元日本軍人軍属と、5人の遺族、合計14人が、補償を求めて、東京地裁に提訴。

1985年(昭和60年)、高裁判決で、敗訴となるが、判決に、事実上、補償を促す付言があったこともあり、1987年(昭和62年)「弔慰金または見舞金」支給の議員立法が成立。

翌年、戦後40年の放置を経て、一人当たり、200万円が支払われる形で、国の昭和62年度予算が成立した。

1992年(平成4年) 最高裁判決、敗訴。

1977年(昭和52年) の、地裁提訴当時で、日本人軍人軍属及び遺族に対する、一人当たりの年間給付(1年分)は、遺族年金72万円、障害年金(第四項症)138万2千円。

戦後、給付累計総額は、昭和60年度分までで、遺族年金は約1344万円、障害年金(第四項症)は、約2316万円。戦後40年間、見舞金さえ全くなかったことは考慮しなくとも、台湾人元日本軍人軍属と、その遺族への見舞金は、これら、同等の障碍を残した、もしくは戦死した、日本人に対する、恩給、年金等による総支給金額の、それぞれ約6.5分の1、11.5分の1に過ぎない。(金額は、原告側高裁控訴審準備書面(六)(昭和五十七年)に添付された、「日本人元軍人軍属に対する補償金の支給内容」より)

存命であればだが、その後、1992年度分までで、障害年金(第四項症)の場合で、日本人への累計総支給額は、約4000万円となり、この格差は約20分の1、と拡大している。(金額は、自由人権協会発行 Report on post war responsibility of Japan for Reparation and Compensation 1993 24頁より)

注:第四項症 腕関節以上で一上肢を失った者、或いは足関節以上で一下肢を失った者(これらは一例)

本文

プロローグ

平成4年4月28日に、最高裁で下された、一つの判決の話である。

元日本軍人軍属の台湾人、鄧盛さんら20数名は、日本政府に対して、一人五百万円の補償を求めて、裁判を起していた。

太平洋戦争中、軍人、軍属として、当時は日本の一部であった、台湾から戦争に行かされた鄧盛さんらは、戦地で重傷を負った。鄧盛さんは、左眼を失明し、右手の肘から下を切り落とさざるを得なかった。その他の人たちも、手のひらの切断、足の膝下(ひざした)の切断、失明などのひどい負傷だった。戦争が終わった後、重症を負って、例えば、鄧盛さんと同じ程度の、重い障碍の残った日本人には、昭和60年度まででも、累計で、ひとり二千万円を越える生活援助がされているのに、鄧盛さんたちには、日本国籍ではなくなったから、ということで、まったく何の補償もされなかった。当時、同じように日本人として出征し、同じように日本のために働いて、手足切断、失明、死亡、そして重い後遺症を患う、という目にあったにもかかわらず、鄧盛さんらは、日本人には厚い生活援助、そして自分たちには、何の補償も、援助もない、ということに、納得がいかなかった。鄧盛さん自身は、大使館や厚生省に話してみたが、いつまでも門前払い(もんぜんばらい)で、埒があかなかった。そのような経緯があって、鄧盛さんらは、雇用、法律関係に基づく損失補填義務、および、憲法29条3項、13条、14条に基づく、国の行為により特別の犠牲を蒙った者に対する国の補償義務、を理由として、自分たちにも、同様に補償するように日本政府を訴えたのである。

鄧盛さんらのように、戦傷の後遺症に苦しむ人たちの他、戦死した人たちの遺族も、数人が訴訟に加わった

昭和57年の一審は敗訴。昭和60年の高裁判決も敗訴で、鄧盛さんらは最高裁に上告していた。そして、この日、最高裁は、恩給法等の適用を日本国籍者に限定することは合理性がある、として、鄧盛さんらの訴えを退けたのである。

出征、爆撃と、右腕切断

では、具体的な事実の経緯はどうであったか、鄧盛さんについて取り上げる。鄧盛さんは、大正10年(1921年)に、当時、日本領となっていた台湾に生まれた。公学校、つまり、当時の日本政府が、現地の台湾人向けに作っていた小学校を卒業した後、派出所に勤め、その後、蚕糸試験場の仕事、自宅の農作業の手伝いなどをするようになる。また、勤労報国青年団、というものにも入らされ、奉仕作業をし、軍隊式の精神訓練などを受けた。

太平洋戦争も半ばとなった昭和18年になって、鄧盛さんは、海軍軍属として、ニューギニアの東側にある、ニューブリテン島のラバウル、という所に派遣される。軍属、というのは、軍隊には勤務するけれども、直接戦闘には加わらない人たちのことである。例えば、建設工事、雑役、捕虜監視、などを受け持たされた。ラバウルは、「ラバウル海軍航空隊」、という歌にも歌われたように、南東方面の、有名な一大拠点だった。そのラバウルで、鄧盛さんは、軍属として、設営、農作業などの仕事をした。

ラバウルに派遣されて、一年くらいたったある日のこと。鄧盛さんは、農具などを輸送した後で、ジャングルに戻ろうとしたところを、米軍機の爆撃を受けた。鄧盛さんが次に気がついた時には、右手を既に切断された状態で、ジャングルの防空壕の中で横になっていた。頭は、包帯でぐるぐる巻きにされており、何も見えなかった。左眼が失明している事が分かったのは、その包帯が取れてからのことだった。右耳も、鼓膜の破裂で、聴力を失った。鄧盛さんは、その負傷後、一年足らずで、ラバウル周辺で終戦を迎え、氷川丸、という引揚船で、台湾へ移送された。

苦難の戦後‐無補償と提訴

片腕がなくなって帰国した鄧盛さんを、しばらくは、奥さんと父親が、日雇い労働をして支えた。やがて小作地を受けられるようになり、その後は、主に奥さんが、そして鄧盛さん自身も、鍬の柄を肘から下のない右手にしばりつける、などして農作業をし、生活した。地裁判決の当時、鄧盛さんには八人の子供がいた。

このように、片腕の肘から下がない、という状態で、たいへん生活に困った鄧盛さんは、昭和27年の、日本と台湾の間の平和条約締結後、台北に日本大使館が設立されると、すぐに傷痍年金について問い合わせた。ところが、その時の大使館の返事は、お気の毒だが、あなたの負傷については、日華平和条約第3条に基づいて、これから両国政府で取り決めることになっているから、というものだった。しかし、この取り決めは、10年経っても、15年経っても、されなかった。それどころか、昭和47年の日中共同声明によって、日本が台湾を国と認めなくなったため、それ以降、取り決めがなされる可能性さえも、まったくなくなってしまったのである。この間、鄧盛さんは、厚生省に補償を求める請願書を出したり、いろいろとやってみたのだが、結局なんの成果も得られなかった。しかし、それでも鄧盛さんは、完全には諦めてはいなかった。

そんな時に、インドネシアの島で、一人の元日本兵の台湾人が見つかり、大きなニュースになる、という事件が、1974年末に起こった。それを期に、台湾人元日本兵が、無補償状態であることも、一般の日本人にも知られるようになり、日本で善意の人たちの有志により、「台湾人元日本兵士の補償問題を考える会」、という団体が作られた。補償を進めよう、という団体である。鄧盛さんは、その発足後、いち早くこの団体の運動と連絡を取った。やがて、この団体では、裁判以外での解決を求める運動も行き詰まったため、1977年(昭和52年)、東京地裁に、補償を要求する裁判を提訴することになったのである。この辺りの事情については、後で詳しくお話しすることになる。

台湾人元日本軍人軍属の歴史経緯

ここまでは、鄧盛さんら個人の側面に光を当ててお話ししたが、次に、歴史的なレベルで、どんな事が起こったのかを見てみる。

厚生省の発表によると、戦時中の台湾からは、約20万人の軍人軍属が出征し、そのうちの、約3万人が亡くなった。(提訴訴状による)。統計の正確さに疑問があるため、死者は、もう少し多い可能性がある。(訴状は、「戦死者の数は、一説では11万といわれるが、厚生省の把握している数字に従っても3万余人に達する。戦傷病者の数は、この数倍とみるべきであろう」、としている)。

台湾は、1894年(明治27年)の日清戦争の結果、翌年の下関条約以降、日本領となった地域である。元来、台湾は、清国の支配の及んでいる程度も低かったようで、朝鮮人、としての国民意識の強かった朝鮮人と比べ、台湾人の日本への同化は、あくまでも朝鮮との比較の上の話であるけれども、朝鮮との比較で言えば、比較的容易に進んだ。学校では、日本語が教えられ、今日(こんにち)でも(著者注:1990年代後半くらい)日本時代に教育を受けた年配の人々は、日本語を話せる人が少なくないようだ。日本の尋常小学校生と同じく、教育勅語を暗誦し、「皇室のことを言うと必ず不動の姿勢」、だったという(鄧盛さんの地裁裁判での陳述)。

日本領であった台湾では、戦争中の1942年(昭和17年)に、志願兵制度が始まり、44年には、徴兵制がしかれた。上記の裁判の原告の一人、全永福さんは、この志願兵である。厚生省の資料によると、台湾人で、日本軍人となった人は、約8万人である。この他、先ほど説明したように、それ以前に、軍属、の身分で、農業義勇団や労働奉仕団(軍夫)として、また、通訳、捕虜監視員として、多くの人が戦地に赴いた。全体では、昭和48年4月14日の厚生省の発表によると、台湾人で日本軍人となった人は、約8万人、台湾から出征した軍属の数は、約13万人である。(厚生省の発表については、台湾人元日本兵士の補償問題を考える会の、会報第1号8面 昭和50年5月20日発行、に基づく)。このうち26人が、戦後、筆者の推測だが、捕虜監視に従事し捕虜虐待の責任を負わされたためではないかと思われるが、連合国側により、死刑に処されている。(「ハンドブック戦後補償 梨の木舎 監修 内海愛子・越田稜・田中宏・飛田雄一 130頁)。鄧盛さんを含め、ここで取り上げている裁判の原告のうち、6人は、農業義勇団として前線に行った人々である。他、高砂義勇隊、というものがある。資料不足のため、私には、これが、身分として軍人(志願兵)に当たるのか、軍属に当たるのか、わからない。高砂族、というのは、現在は台湾の人口の大部分を占めている漢民族が、大陸から渡ってくる以前から台湾に居住していた、台湾の原住民を指す、日本統治時代の総称である。なお、平凡社の小百科事典「マイペディア」、によれば、「現在では,台湾では,台湾原住民の呼称が一般的」、とのことである。高砂族は、一部の日本人には、当時の内地人(日本列島に居住する日本人)以上に「愛国的」だった、という人もあり、多数が志願した、とされていて、高砂義勇隊として編成された。この、高砂義勇隊、に当たるのかどうかわからないが、前記の志願兵の、全永福さんも、高砂族(当時の呼称)である。

条約、20年の放置、そして袋小路

1952年(昭和27年)に、日本と中華民国、すなわち台湾は、平和条約を結んだ(日華平和条約)。この日華平和条約の第3条には、両国の政府および国民の、相手政府および国民に対する、財産と権利の請求権の問題は、互いの政府間の特別の取り決めの主題とする、という文言があった。簡単な文言だが、これには、大きな意味があった。この条項は、後の請求権問題を完全に支配した。鄧盛さんのような、日本軍の軍人軍属としての、従軍中の戦死、および戦傷病の後遺傷害に対する補償や、清冊、と呼ばれる、戦前に台湾に居住していた日本人の、中華民国政府に接収された財産に関する請求権の問題は、その後の日華両政府の交渉を待って解決される、という事になった。鄧盛さんが、日本大使館に傷痍年金等について問合わせた時に、大使館から、両政府で取り決めるから、という手紙が来た、というのは、この事である。ところが、この日本政府と台湾政府の間の、請求権に関する取り決めは、なされず、日華平和条約の締結から20年近く経過した、1970年代に入っても、実現することがなかった。私がこの問題に関する裁判資料を調べた結果でも、一度も、この交渉が行われた、という具体的記録にも、証言にも、出くわさなかったため、私は、恐らく、実際には、交渉すら行われていなかった可能性が高い、と思っている。

先ほどの話のように、1972年になって、大陸の中国と日本の間で、「日中共同声明」、というものが出された。蒋介石が台湾に渡って以来、台湾の、「中華民国」と、大陸の、「中華人民共和国」は、中国の正統性を争っていた。台湾の中華民国では、1950年代半ばは、大陸に反攻して中国を統一する、というのが建前になっていた。当初は、今日のように、中国ではなく、台湾の中華民国の方が、国連でも、「中国」の代表として認められており、アメリカも、資本主義国である中華民国を支援し、大陸の中華人民共和国を、中国の正統政府として認めていなかった。ところが、1971年になって、事態が急変する。7月に米大統領のニクソンが、米大統領としては初めて、大陸の中華人民共和国を訪問する予定であることを発表し、世界を驚かせた。実際に、ニクソンは、翌1972年2月に訪中し、米国は、台湾海峡の両側のすべての中国人が、中国は一つで、台湾を中国の一部と主張していることを認識しており、米国政府はその立場に異を唱えない、とする文言を含む、「上海コミュニュケ」、を発表した。

一方、1971年に、国連決議(いわゆるアルバニア決議案)で、中華人民共和国が、国連における中国の代表と認められたのに伴い、台湾は、国連を脱退した。また、日本の田中角栄内閣も、アメリカの後を追い、大陸の中華人民共和国と、国交を結ぶに至った。1972年9月、日中共同声明は、「日本国政府は、中華人民共和国政府が唯一の合法政府であることを承認する」、と謳い、台湾はこの声明をもって、日本政府からは、国とは認められなくなった。日華平和条約に基づけば、鄧盛さんらの補償問題は、日華政府間の特別取り決めの対象となるはずだったが、その日本と台湾の間の平和条約自体が、無効となってしまった。こうして、鄧さんらの補償の問題は、日華平和条約締結以来、約20年間、放置された挙げ句、ここに来て、完全に宙に浮いてしまったのである。

Part2 に続く

この記事は1990年代後半に、私が、書籍出版用として、多章構成で書いて、そのままになっていたものの、一章分の一部です。

今回、必要な修正をし、事実確認をして、2021/3/31にAmazonで出版したものからの転載です。多少、90年代当時と考えの違う箇所もあるように思いますが、基本的に当時の記述を残し、読みにくいところや、事実確認が甘かったところを改めたものです。

(Amazonでの書名は「台湾の赤い花 台湾人元日本兵たちの 戦後 その1: 無補償と日本人支援者たちと 良心」です。全文を無償公開することは、Amazon側では問題ないようですので、Part2以降も追ってこちらで公開しようと思っています)

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